「個は宇宙なり」
写真家・古茂田不二(71)にとって、その50年の写真歴は、取りも直さずカメラと写真が劇的に変革を続けた半世紀と符合する。それは人間の認識が常に新たな可能性を求めた時の流れでもあった。
技術革新とは裏腹に、混沌を極める世界。そのあまりに鋭利な眼は、何を見るのか。
(文・写真―伊豆野 眸)
1947(昭和22)年、洋画家の父公雄(1910‐1986)と母澄子の長男として松山市祝谷に生を受けた。身の周りには父と同じく洋画家の叔父古茂田守介(1918‐1960)をはじめ、音楽家や医師といった多彩な面々がいた。人前に出るのが苦手な内気な性格だったと振り返る少年を表現の道に向かわせるには充分すぎる環境が整っていたといえる。
中学に入るとバスケットボール部で1年からレギュラー入りするなど活発な生活を送る。だが、創作との関係がなくなるわけではなかった。「図面を引くのが好きでね」。建築家を志すも父公雄の大反対にあった。「絵描きになれという無言の圧力は感じていた」と明かす。
結局、66年に門をくぐったのは日本大学芸術学部写真学科。「絵描きは家に2人もいたし」。日本人の総人口が1億を突破したこの年、三里塚闘争が始まり、ビートルズが来日した。
政治の季節。時代が大きく変わる予兆を肌で感じながら、東京での日々を過ごした。在学中に百科事典用の撮影アシスタントからキャリアを始める。3年の時にフリーランスとして当時のサラリーマンの初任給にして約1年分に相当するリンホフ・スーパーテヒニカ∨型を手に、コマーシャルの世界に飛び込んだ。卒業後、大手雑誌で報道カメラマンとして活躍したこともある。が、転機が訪れる。父が病だった。
26歳フリーカメラマンの帰郷。当初は「都落ちの感じはあった」が、徐々に「成田(空港)まで行けば東京にいるのと同じだし、東京ローカルの仕事をするなら松山で仕事するのと一緒。逆に松山にいた方が、客観的に東京を見ることができると思うようになった」。以来、古里を拠点に走り続けてきた。
地元の写真レベル向上を目指し、後進の育成にも尽力してきた。77年から旧山本学園(現・松山ビジネスカレッジ)で教鞭をとり、2006年に副校長、5年後に校長に就任し、現在も教壇に立ち続ける。1983年、仲間ともに職能団体「愛媛写真家協会」の設立に携わり、現在会長を務めている。
近作は、雪に反射した陽光のグラデーションと、構図の中央に一筋の裂け目のように口を開けた穴を配した。一見すると内在する情念の表出を感じさせるのは強いコンポジション(=構図)に拠るところかもしれないが、否、写真的でも絵画的でもない、自由な映像が、生き物のごとく語り掛けてくる。まぎれもない「光の画」がそこに在る。
一方で、社会的な視線を忘れない。終戦から71年の2016年、50年前と現在の広島の風景とを対比した作品展「HIROSHIMA 1966/2016」(MBC GALLERY 1141)を開催した。メインは現在の「原爆ドーム」をストレートに写し、巨大なプリントで見る者に現実への認識を迫る。まるで「この建物に見覚えがあるか。これが、ここにこの状態であることに、気付きはあるか」と問い掛けるように。
複数の表象を行き来する詩的な風景、他方で社会派たる強い問い。ある種の二面性を行き来する志向は、まるで虚実をたゆたう写真そのものの感触にさえ似ている。共通項は古茂田の前に、かつて、確実に在ったもの。どう捉えるか、どう見るか、対象と真正面から向き合った一人の人間の軌跡がそこにある。
紫煙の向こうで眼が光る。「『本物』がいらない世界になってきた。写真に対する哲学も、規則も。ある意味では自由になった。女性の参加も増えたし、上手い下手に縛られない発表も出来るようになった。ただ、写真ひとつひとつの価値は下がり、内面の表出でなくなったばかりか、『自身を隠した上でうけたい』みたいな風潮が出てきている。形態はグローバルになってはいても、その実、真実味のないものが溢れるようになった」
写真とは何か。「自分を知るためのツール。なぜ、この対象に感動するのか、余計なものをどんどん削いで、分子、核を見つける。人間は何を考えているのか、それを知る試み。自分が見ているその先を知りたい」と語り「もっと自由に。『写真的』と呼ばれる枠に囚われないように」と後進にエールを送る。
個は宇宙。離合を繰り返し無限に広がる。古茂田不二の旅路はエピローグを見せない。
(敬称略)
【写真】校長を務める松山ビジネスカレッジの校内ギャラリー「MBC GALLERY 1141」で学生の作品を前にする古茂田不二=2018年3月、松山市一番町1丁目